高電寺

高電寺創刊号

ラブライブ!サンシャイン外伝 第1章 或原a.k.aミナッシー

2020年07月28日 09:34 by sdrkoenji
2020年07月28日 09:34 by sdrkoenji

潮の匂いがする。朝霧に濡れて蒸しかえった砂の匂いがする。
この匂いは、故郷の匂いか。と佐々木正也は感じたが、無理があるのでは? 彼が海沿いに住んでいたのは3歳までで、それから高校卒
業までを盆地の農村地帯で育った。本当の故郷の匂いは牛糞の湿った匂いなのだ。ただそれでは格好がつかないので、潮の匂いを故郷の匂
いにしよう、実際3歳まで自分は海沿いだったのだから、と考える。こうしてなんでもかんでも都合のいい現象は自分の世界に相関させよ
うとする。このような悪癖が佐々木の無意識にあった。
ありふれた港町の匂いをたしかめるように佐々木は、SLのどでかい車輪ふたつがばかに目立つ、沼津機関区略史碑という石碑に腰を下
ろした。
石碑に彫刻された説明文は早朝のほの暗さはもちろんであるが、とにかく達筆すぎていて、一目で何が書かれているのか、さっぱりわか
ったものではない。一筆入魂。その言葉に相応しい漢字の、トメ感。ハネ感。ハライ感。意味はまったく伝わらず、迫力だけが伝わってく
る。しかし今日日だれが一体こんな説明文を真剣に読むというのだろう。
そんな達筆を読み、全然自分に関係ない沼津期間区略史に触れ、感懐に耽ろうとしている人はまったくもって阿保ではないか。そんな人
がいたら本物だ。
 そんな本物が佐々木正也だった。
 薄紫に濁る霧の早朝、スマートフォンのライトで照らすなどして、やっと石碑の文章は読めたものだった。それを読みとった上で耽る佐
々木の思いは、記されている沼津の鉄道の歴史について、ではなく、ただ、時間という概念の、主観の上での、伸縮性だった。曖昧さだっ
た。いい加減さだった。
 時に、膨大な時間は言葉の魔術により縮小される。たとえば、この石碑に書かれている鉄道開拓の徒労の史実には、多くの労働者の徒労
があった筈である。だが結局、その苦い時間は、ただこの石碑一枚に記された文章、目分量で原稿用紙一枚程度に集約される。
一方で、佐々木の、時間軸上の、この日の、この座標は、佐々木の退屈さによって、七輪の上の焼き餅のようにぷくぅっ、と膨張し、一
分が、通常の一分より、厭に長く感じられるのである。
 佐々木の腕時計の秒針のリズムは寸分も狂わず確かな脈をチクチクと右方へ、下方へ、左方へ、上方へ巡り進んでいった。このまま破裂
したら、どうなるのだろう、と彼は思ったが、それは神と呼ばれる存在でさえもわからんことかもしれない。神を信じていない佐々木だが
その時はそう思ったのだった。
とにかく佐々木は暇だった。憤然と始発を待っていた。
まずは朝の五時過ぎに熱海行きの電車がやって来る。それに乗る。一旦、熱海で降りて、上野行きの電車に乗り換える。その間、腹が減
ってくるかもしれない。だったら、駅弁を買ってもいいかもしれない。熱海駅にはたしか押し寿司弁当なる駅弁があった筈で、押し寿司を
食うともなれば、酒だ。酒が欲しい。アサヒビールよりかは、キリンビールの肴になる気がする。そうだそれにしよう。小田原辺りまでに
それを飲み食いし、いい気分になる。なんなら小田原で降車してゴミを捨てて、あえて小田急ロマンスカーに乗ったほうが実は得かもしれ
ない。だが、おそらく佐々木が小田原に到着するくらいから、サラリーマンの通勤ラッシュが予想され、椅子取りゲーム理論で考えて
、JRに乗ったままのほうが自分の座れる領域を確保できていいじゃないか。だがどちらにせよ、東京に着く頃には座っていようが立って
いようが完全なる鮨詰め電車と成り果て、前の電車で乗って座席を確保できた佐々木正也も苦しい思いをするにちがいない。小田急ロマン
スカーなんて、乗ったことはないが、私鉄だし、もっと酷い混雑状況だろうと思う。なにがロマンスカーじゃい。いみじきことだ。
だからやはり、JRの上野行きにそのまま乗っていけばモーマンタイなのである。さらにその方法を選択すると、千六百円くらい支払わ
なければならない運賃も、佐々木正也が発明した方法を利用すると、なんとその半額以下で東京熱海間を行くことが可能になる。

その一。熱海駅の切符売り場で最安の百四十円の切符を買います。
その二。その切符で改札を通り抜けます。どこかテキトーなところに捨ててしまいます。
その三。そのまま電車に乗るとフツーに上野に到着します。今の時代、切符の確認がないのでフツーに上野まで到着します。
さて、トリックはここからである。
改札の横では駅員が常に配置されていますが、この人たちに切符を落としたんですけど……と申し訳ない感じで申し上げましょう。そう
すると、駅員は「どこから来たの?」と問答してきますが、ここで、「池袋から来た」などと言うと、怪しく思われるでしょう。
なので「品川から来た」と言います。或いは、「浜松町から」と。この二つの土地は羽田空港に地下鉄やモノレールで直結しているので
、そこで切符を落としたと仮定しても、「田舎からやってきた旅行者なんだろうなこの人は。バカだなー。気をつけなさい」くらいにしか
駅員は思わないのです。だから品川&浜松町からやってきたという嘘はほぼ百パーセントまかり通ります。
という詐術を利用し佐々木正也は、熱海から東京へ出るとき毎度、五百円しか払っていない。まったくもって人間の屑である。捕まると
は微塵にも思っていないのである。万一に捕まったとしても、極論であるが、その金額を全額払った上で、「もう二度とこのような卑怯な
真似はしません。私は奨学金を借りています。大学にバレて退学の措置を取られた場合、全体、ボクの人生はどうなるんですか。ただただ
借金まみれの無職じゃないですか。どう責任とってくれるのですか。お願いします。命を救ったと思って」なんてなことをもっと丁寧に申
し上げて、嗚咽しながら、びたっと半身を地面にひれ伏し、渾身の土下座をすればいいと思っている。その上、尋常の道徳心を持っている
駅員さんならば、そうじゃなくとも、それは許さざるを得ない筈だと思っている。曰く、「オレが駅員だったとしたら、マニュアルに則っ
た説教をすませて、すぐさま「今回だけは見なかったことにしてやるから早く行きなさい」と寛容に改札をスルーするような男でありたい
し、さらには「これ少ないけど持って行きなさい」なんて言いつつ三つ折りにした千円札をポケットにねじ込んであげてやりたい。そうい
う徳の高い行為をこれからどんどん積んでいきたい。けど、そんな金がないから、こんな詐術を使い、善意の合間をかいくぐってしか佐々
木はやっていけない。
向かいのベンチにはサラリーマンが酔いつぶれて倒れていた。
普段、東京で、たとえば佐々木正也の在住している西武池袋線江古田駅周辺で酒に酔って倒れている人々を見ても、皆、自業自得だし、
大体が大学生であり、その友達が介抱してやったりしているから、ミネラルウォーターやお茶をコンビニで買ってきて飲ませるような、助
けるようなことはまずしない。声をかけることもしない。
しかし、再三言うが、佐々木は暇だった。
暇すぎて呆然と沼津機関区略史碑を読んでいる男。それも読み切ってどうしようもなくなった男。佐々木はやる気のない声で、大丈夫で
すか。声をかけてみたがしかし、サラリーマンからはウンともスンとも応酬がなく、まるで死んでいるように反応がない。こいつもきっと
自業自得なんだ。と思った。
佐々木は仕方なく再度、黒く濡れた小石にうつむいた。
無数の眼球のようにも見える石のなかで、死にかけの蝉が、うすい羽根をじだばださせながら、再度、宙空へ飛び立とうと最後の力を振
り絞っている。ギチチチ……ギチチチ……と鳴くだけの、歯車のこわれたオモチャのように振動するだけのその身体は、たくさんの小石と
ぶつかり、傷ついて、かえって死へと向かっていく。それでも生きようとする蝉を、佐々木は頑張れ、と思った。次第に動かなくなってい
く様を呆然と見つめていた。
 霧の朝の厭な静けさが佐々木の周辺を覆っている。
時折聞こえるタクシーの音。エンジン音。ハンドルを切る音。蝉の声。まだ未成年と思しき地元のヤンキーが佐々木の方を怪訝な目で見
て、通りすぎていく。茶髪で足の短い女が二人、チラッと見返して嘲笑する。遠ざかって「あいつヤバっ」と聞こえてくるのが佐々木を傷
つける。なんでだ。なんのことか。と思った。が、それも無理はない話だ。というのも、ティーシャツ、リュック、手ぬぐい、サンダル、
リストバンド、彼が装着しているそのほとんどがことごとく真っ赤に染まっているからで、しかし、その程度なら、まだ、モーレツに赤・
レッド・紅が好きな人。情熱的な人。ということになるのであるが、他にも佐々木は、麦わら帽子と短パンを着用していた。いや待てよ。

あっ。これは、何も事情をわかってない人側から見れば、ワンピースのルフィかよ、お前(笑)と言いたくなる風体に違いないのだ。ヤン
キーの女から見たら尚更そうだよ。うわーっ。やってしまった。ダサい。ダサすぎる。ワンピース的な感性を小馬鹿にしている佐々木には
耐えられない羞恥であった。なんでこんなものをあのとき、嬉々として買ってしまったのだろうか。しかも、クレジットカードをもオレは
会計のときに使ってしまっている。なんということでしょう。すべては柴間塵慶とガンちゃんが買っちゃえ! 買っちゃえ! とオレを囃
し立てたからこうなったのだ。糞野郎どもが。死ね。死んでしまえ。いや、違う。違った。全部、俺が悪い。俺が決断したことなのだ。二
人の口車に乗せられてこんなものを買った俺が悪いにすぎない。これもまた自業自得か、と佐々木は思った。
       二
柴間塵慶は今年の四月から沼津市の西浦久連という辺境でミカン農家をはじめた。といっても、一から畑を借りていきなりミカン農家と
してデビューしたわけではない。
その土地の農業法人に就農するかたちでミカン農家としてデビューすることとなった。佐々木がいうには、福利厚生がベラボーに良くて
、光熱費込み家賃三万で海沿いの一軒家住まいが保証されるとのこと。
卒業後、東京でサラリーマンをやるよりも、西浦で農業を営んだ方がいいかもしれない、これから奨学金の返済がこの先何十年もつづく
奨学生の佐々木は尚更そう思った。それくらい好条件な仕事だと思った。
しかし佐々木とその大学の同級生であるガンちゃんも、流石に止めたほうがいいのではないかと念を押した。その他、奴の就農事情につ
いて小耳に挟んだ人間は皆、バカかよこいつ。やめとけよ。など口走った。
それもその筈である。
柴間塵慶はそれまで歌舞伎町で、(店名は失念したが、)とにかく有名なグループ傘下のホスト店で月に一千万も売り上げる敏腕ホスト
だったからである。
ホスト業界について佐々木もガンちゃんも詳しい事情を知らなかったが、一千万プレイヤーと呼ばれるまでに相当な努力があったことは
詳しく知っていた。
というのも柴間はもともと佐々木の高校時代からの友人で、高校卒業後、北海道釧路市の土木作業員として普通に暮らしていたのに、通
勤最中、自慢のスープラが飛び出してきた鹿を轢き殺したせいで廃車になったのがきっかけで、毎日働いているのが厭になり、ホストで一
発当てようと思い立ったが吉日。会社をブッチして、スーツケースに荷物をまとめ、家はそのままに上京し、佐々木の家に当初一ヶ月だけ
居候する予定が、金が貯まらず、結局、半年近くも居候していたからである。
その間に、柴間はガンちゃんに出会い、その他の二人の大学の友達にも出会って、すぐに二人の大学の周辺に溶け込んだ。
そんな柴間の楽しい居候生活も一年ほどで終わった。
その後、あった出来事は二人も詳しくは知らない。しかしここに書き綴るにはあまりにも長ったらしいかつ複雑な上、その大半がアウト
ローな内容であり口外すると、三人もろとも命が危ない危険にさらされるという、関係ない二人にはなんとも迷惑な壮絶な紆余曲折が柴間
にはあったというのだ。
それから去年の夏、やっと東京に戻って現在、一千万プレイヤーの地位を築いた。
それ故に二人は、柴間がその地位を捨てミカン農家になることを反対した。
しかし、柴間も(なんの事情かはさておき)警察から逃げるためイタリアに数ヶ月滞在したとか言うくらいだから、本当に壮絶だったの
だろうな、自業自得だけどな(笑)などとガンちゃんと佐々木は語る。二人の思うに、奴の性質上、ミカンの箱を抱っこする生活よりも、
デブ、ブス、メンヘラ、女医、ヤンママ、お岩さん、手首がズタズタになった風俗嬢、アラサーのキャバ嬢、フランス人などいろんな女を
抱っこしてくれた方が、話のタネに尽きないよな。でも、ホストからいきなりミカン農家になるってのも相当、オレたちとしてはこの上な
い笑いのネタになる。ネタにする気概がある。
去年はホームランだった。札幌で出会った女の子と結婚して直後、アダルトビデオに出演してたのが発覚したり、流通を中止させるのに
桁違いの違約金を払ったり、傷心もさめやらぬうちに今度は浮気が発覚したり、とにかく彼に悲劇が多すぎた。しかしいつだって三人で笑

い飛ばしてきたものだ。どうしようもないことがあったとき、笑い飛ばすことこそが救いなのだ。笑いのネタが増えるのはいいことだ。
それでもミカン農家に転職するのだけは、佐々木とガンちゃんはモーレツに反対した。が、反対を押し切り、自分の築き上げた地位、富
を捨て、静岡県沼津市の辺境で、四月からミカン農家稼業を始めた彼であった。
そんな事態になったすべての原因は『ラブライブ! サンシャイン』というアニメにあった。ざっくり説明すると、そのアニメは沼津の
西浦地区が舞台になっていて、そこに在住する女子高生九人が性格、学年、親の収入に差はあれども、一人の熱い心を持った少女に、ある
女は感化され、ある女はやりたくないのにもかかわらず巻き込まれ、なんとか決起結集し、作詞、作曲、振付け、衣装など全部、自作で、
高校生アイドルの甲子園で優勝するまでの青春物語だ。いかにもヲタク属が好きこのみそうなものである。それにしても不思議なのは、な
んで左様にもハイスペックな女子高生が沼津市に偶然、居合わせたのか。奇跡に近しいことだよな。ありえないよな。そもそも、田舎の女
子高生って大体が芋女じゃん。明治維新から現代まで、二度も大きな戦争を挟み、一時は壊滅状態に追い込まれても、いちじるしく資本主
義を発展させてきたこの日本において、オンナとして価値の高い美人あるいは可愛い子は、沼津とか釧路とかの小さな地方都市なんかから
はことごとく出て行くに決まっていて、その大体が社長とか資本家に嫁ぐのだから、資本の集約される場所、都心に集まるのであるから、
こんな田舎、吸い上げられて干からびたブスの土地に決まっているじゃないか。あり得ねえよ。デタラメだ。などと、一話も見たことない
癖、偏見も甚だしく佐々木は思っていた。しかし決してそれを口にはしなかった。
というのも、柴間塵慶その人が悲劇のスピード離婚してからか、気のせいかもしれないが、心の穴を埋めるかのように、その『ラブライ
ブ!サンシャイン』の主人公であるという、ミカン色の髪の女子高生・高海千歌のことを賞賛し崇拝しはじめたからであり、さる人の前で
左様にアンチな言動をとっていると何をされるかわからないからだった。
それで黙って見守っていたが、柴間の、金髪にツーブロックという典型的ヤンキー気質な頭髪は、まず金髪の部分がミカン色に染まり、
髪型もおのずとガーリーなボブカットに変貌していて、ヘアアレンジ次第では、その高海千歌にコスプレできないことはない感じ。身も心
もオレンジに染まり、友達の佐々木は「あちゃ〜……」と内心思ったが、もう黙って見守ってあげることしかできなかった。ガンちゃんに
しても同じだった。
結句、「好きが高じて」沼津の西浦地区に移住。高海千歌のイメージカラーがミカン色だから、ミカン農家稼業をはじめてしまった体た
らく。
それで三日前、高海千歌の誕生日八月一日の前日の朝。奇しくも明日が休みだったことを思い出した柴間は沼津で壮大な聖誕祭を開こう
と思いついた。
が、すぐさま聖誕祭の準備に取り掛かったわけではないのは、彼はもう立派な社会人だからで、汗と土にまみれへとへとになって帰って
シャワーを浴びて夕方、やっとケーキを焼くなどの準備にとりかかれた。
しかしこんなに壮大にしても人手がいなければ盛り上がらない。またしても思いつきで「もしもしおれだけど」「なしたの」「いやよ。
今から来いよ」「って急に言われても、そっちまで行く金ないんだけど」「うるせえよ。ヒッチハイクでもなんでもして来いよ」「いや無
茶いうなよ」「間に合わなかったら殺すし、来なかったら来なかったで今度、東京行ったときシバくぞ」「無茶な」「じゃあな待ってるよ
ー」「えっ」ツー。ツー。ツー。と佐々木に恫喝に限りなく近い電話をかまし、佐々木は無茶な要求に困った。
しかし決して無茶でもない話だったのは、実は佐々木はヒッチハイクのプロでありその昔、北海道釧路市から福岡県の博多までを遊びな
がら十日で縦断したことがあったからで、練馬区から静岡県東部あたりまでなら、今から行けばギリギリで日をまたぐまで、高海千歌の聖
誕祭当日までには行けそうだという算段があった。両人ともに常識破りであったからこそ通用する無茶ぶりである。佐々木はやれやれ、な
んて言いながら沼津へヒッチハイクで向かった。
ようやく沼津市に着いたのが夜の十一時前で、佐々木は安心したが、乗せてくれた現地の人曰く、西浦まではあと五十分前後はかかると
のことだった。焦った。が、面白くなってきたぜ。彼はそんな焦りに心を折ることはなく、むしろハイになって気持ち良くなっちゃってい
た。
 「もうそろそろ着くから」「おせえんだよ」柴間は佐々木の努力に微塵も関心を抱かなかた。それどころか、寵愛する推しの誕生日に間
に合わなさそうな友人を不躾なやつだと思い、苛立っていた。ヒリついていた。

 その一方、刻々と時間が迫り来るほど佐々木は気持ちよくなっていた。
 しかもなぜかこの時間帯にもかかわらず渋滞に巻き込まれた。
 一体、何事か。と思った。
が、運転手のじいさん曰く、ここでは二〜三年前から時折、そのようなことが起こる。とのことだった。佐々木ははたと気づいた。これ
はすべて『ラブライブ! サンシャイン』のファンなのではないかと。みんな高海千歌の聖誕祭のために全国から集まって来ているのでは
ないかと。
そう確信したのは、対向車線では数台に一台の割合で自家製の車をラブライブ!シリーズのキャラクターでラッピングした痛車なるもの
が走っているからで、大変なことに巻き込まれたのだと佐々木は痛感した。
 市街の中心部まで渋滞は極まっていった。しかし一旦抜けてしまうと、徐々に渋滞は解消され、海沿いにまでたどり着くと西浦方面へ行
く車は少なかった。奇跡に近しいと思った。それからは運転手には飛ばしてもらった。
 それで一時は間に合わないと絶望したものの、タイムリミットまで十分以上も残して奇跡的な巻き返しを果たした。運転手のじいさんが
元走り屋ではなかったら、と思うと、自分の悪運の強さと、昔とちっとも変わらぬヒッチハイクの実力を感じずにはいられなかった。
 柴間塵慶の家は海岸通りという緩やかな半円の海沿いに面した二階建ての一軒家であった。街灯は二、三本弱く光っていてあとは人家の
明かりだけが頼りだった。どこまで歩いても、静けさに、虫の声や潮騒の音がきわ立っていた。
 佐々木は絶景だ、と思った。
とはいえ、海側はほぼ闇だったので、何をもってそう思っているのか定かではない。
良いところだな、と思った。そう。最初からそういえば良いのである。ぼーっと虚空を眺めて感動していたら、「はよ入れや!」背中に
ずどんっと飛び蹴りが炸裂した。
刹那に、聞き覚えのある笑い声がした。柴間に、あと一人は……え。ガンちゃん?
 あろうことかガンちゃんもいたのである。
「なんでガンちゃんもいんのよ」
「いや俺はずっとおったよ」
「マジか」
 そういえば彼も重篤なラブライバーであったことを再度、紹介する。
「十三日がヨシコの誕生日やねん」
「え。じゃあ大学でしばらく見なかったけど」
「だからずっとおったよ」
「へ〜」
「ええやろ」
「ええなあ」
 ええなあ、とはつゆ思わぬ佐々木であった。正味、こいつら、終わってんな。と思った。
「ずっとミカンの手伝いしとんねん」
 居酒屋のバイトリーダーのような暑苦しい目をしてガンちゃんは言うのだった。
「ええなあ」「ええやろ」「何しとんの」「摘果」「テッカ? ってそれはお前、巻き寿司か?」「やったらわかる」「いやいいです」「
楽しいよ」「っていうけど農作業って絶対しんどいっしょ」「しんどいよ」「じゃあやんないよ」「楽しいよ」「だからやんねえって」「
いいから働け」などと無為な押し問答を繰り広げても仕方ない。ここは建設的な会話をしよう。
「そしたらバイト代は出るんでしょ?」と佐々木は訊くと、
 ガンちゃんはなぜか得意げになって、「わからん。わからんけど楽しくなってきた」と答える
「まあ、一回やってみればいいら?」

 と数ヶ月間で習得した静岡弁でフォローを入れる柴間に、
「いいら〜! いいら〜!」
 と覚えたての言葉をしきりに使いたがる巨大な赤子のようなガンちゃんであった。
「まあバイト代に関してはぶっちゃけわからんねー。上司に聞いてみるけどさ」
 と呆れたような顔で柴間はさらっと言ったが内心、やったー。仕事が三倍はやいぞー。無給で頑張ってくれ〜(笑)とほくそ笑んでいた
。その心の声を佐々木は聞いた。
しかし「そうか〜」と佐々木は言うしかできなかった。なんとなくそんな気もしていた。
ガンちゃんのあの調子を見る限り、十中八九バイト代は出ないのでしょう。しかし、バイト代も出ないのによく手伝えるよな。ブラック
企業がネットでどれほど叩かれてようが、どこの店舗も潰れていないのはきっと、こういう良い人が日本にはたくさんいるからだな。と内
心思っていた。奨学金も借りていなければ、実家が金沢で、金箔屋の息子だというガンちゃんに、働くことが苦しいことという意識は余程
の怠け者でないかぎりは生まれないのだ。佐々木は、みみっちい自分を呪った。すべては貧しさのせいだ。
まあ、とりあえずヒッチハイクお疲れ。これでも飲んで乾杯だ。と柴間は近所の宿の料理人から貰ったという手作りの梅酒を持って机に
置いた。そして冷蔵庫から、これも貰いものだという本マグロの大トロの皿を置いた。身の瑞々しさはあきらかに鮮度抜群の生のそれであ
った。
「ええええっ。海の金塊じゃーん」佐々木は喫驚した。
「おれも最初はおどろいたけどね」とガンちゃん。
 ひもじい佐々木はさっそく大トロに手を伸ばした。自然に手が伸びていた。
「あ。まだ食うなって! あと二分あるから」柴間は彼の手をはじく。
「ああ。聖誕祭ね」
「いや、まずやるべきこと祭壇だから」
「祭壇て、なに」
「時間ないからとりあえず先に上あがって」と言われ、ガンちゃんの先導で階段を駆け上がった。あがってすぐの廊下に面した部屋の扉を
開けると、七畳間ほどの暗室で、その部屋の半分と収納スペースの奥の方まで、高海千歌の人形やらタオルやら写真やら大量の公式グッズ
が、神棚と仏壇を掛け合わせたような趣で配置され、オレンジのライトで調和的にライトアップされていた。異様さにこわっ、と思った。
そして、神々しいとも思った。  
 程なくして、「おまたせー」という声が下から上がってきた。その両手には、直径40センチ、高さ25センチほどの見事なホールケー
キがあり、上にも横にも隙間なく内浦のミカンが詰められていた。なかなか美味そうじゃないか、と佐々木は感心した。
「くずれやすいからお前ら絶対おどろかすなよ」と言いながら柴間は祭壇の前のテーブルに慎重にミカンケーキを置こうとゆるやかに腰を
下げた。佐々木はひやっとした。一言でも発して、その瞬間、偶然にもミカンひとつでもはがれたらコトだと。その瞬間、ガンちゃんは思
っていた。今ここで屁こいたらおもろいけど、どつかれるなー。なんて。
 その心配の必要はまったくなく完全な状態でケーキは祭壇に置かれた。
 程なくして、時刻を迎え、三人は虚空へ向かったようなかたちでハッピーバースデー千歌ちゃんを歌った。これでようやっと食事タイム
に入ったが問題はすでに目の前にあった。
 ケーキはまず四当分に切られ、一人、一切れの割り当てでケーキが行き渡るのである。そうすると当然、一個余る。ここは食い盛りの若
い男が三人。となると残りの一切れはじゃんけんで勝った奴が食えるというのが男のケーキの世界なのである。
 しかし食っていくうち次第に争心が失せていくのである。別に味に問題はなかった。むしろすこぶる美味であり、柴間の料理センスを佐
々木とガンちゃんは賞賛し、男三人肩を叩き合い、むさくるしいが良い空気感だった。が、それさえも続いたのは三分程であった。一度だ
れもしゃべらなくなると、それっきりただ黙然とケーキを食らっているだけで、ついには閉口したまま、顎を動かすだけの状態となり場は
しらけていった。程なくして、
「量、ちょっと多くね?」

 と料理人である柴間が言うと、あとは気を使う必要はなく
「ちょっとじょのい。どいぶ多い」
 とまだ口内にも皿にもケーキが残っていた佐々木は言って、
「もう無理食って」
 とガンちゃんは皿に残った残飯を佐々木の皿に移した。
「バカ。食えないつってんだろ」「食えないとは言ってないやん」「屁理屈言うな意味的に同じじゃ」「俺のも食うら?」「おい」「いら
ん」「俺もいらん」「殺すぞダボ」などと押し問答の末、残飯は佐々木の手に渡り、やっぱりスイーツは重たい。男達は甘いものがたくさ
ん食べられないのである。
 無慈悲にもケーキを完食するまでマグロも梅酒もお預けであった。しかし佐々木はこういう境地に立たされたとき男気の男で、食える時
に食っとけ精神により三十分で完食した。
 その頃には当然、マグロは一切れも残っていなく、やけくそに梅酒をがぶ飲みして泥酔。マグロちょっと残しとけよマジでお前らよ、親
しい仲にも礼儀ありって辞を知らねえのか、と悪態をついていたところを寝技をかけられ気絶した佐々木であった。

 翌朝、日々の農作業により早起きが習慣となっている柴間とガンちゃんはいまだウンウン呻いて寝腐っている佐々木の顔が土色に変色し
ているのを見て、うわっ、と笑った。
わずかに漏れる息からぷーん、と渋柿の臭いが臭った。
まったくどれだけ飲んだらこんな死ぬ間際の赤塚不二夫みたいになるのだろうか、と二人は呆れたが、それを越えていくほど二人は呆れ
者で、第一回佐々木を起こすな選手権〜優勝者には称号「起こさない王」〜と称し、人が起きるか起きないかギリギリの悪戯を屍人のよう
に眠る佐々木に施した。しかし佐々木もこの手の悪戯被害には手練れとなっていて、大抵の悪戯では最早起きなくなっていた。そうすると
二人の悪戯もヤケクソになって行きはじめ、瓶で頭を殴る、心臓マッサージをする、追加の人工呼吸と必死だったが、ついに佐々木は起き
ることはなかった。二人が匙を投げて、暫時休憩にはいると、あ。屁出るわ。ガンちゃんがす〜っ、と音エネルギーに変換されていない純
度の高い臭いの屁をこいた。すかさず柴間はこれを握り、佐々木の鼻の上に持っていって開放すると、心拍数が一瞬だけピクリと上がった
。「すかしっ屁が効いたぞ」「マジか」「これは蘇生できるぞ」「やってみるか」と今度は屁こき合戦と相成った。が、意識して出す屁ほ
ど音量は大きくなるもので、肛門を破いたような激しい屁ばかりが連発するのであった。俺もう直で行くわ、とガンちゃんの中でなにかが
吹っ切れた。恥じらう気持ちを捨て、佐々木の顔面に跨った。佐々木の顔面の上で像の皮膚のような陰嚢がぶらぶら揺れている。「カウン
トダウンいれて」逃げ道をガンちゃんは作りたくなかった。静かに柴間はうなづいて眼光を鋭くした。行くぞ、と平坦に囁いて、
「3!」焦土のような肛門をふかく開く
「2!」宙空へゆっくりと飛翔する陰嚢
「1!」黒い頭が刹那に現れるとぎゅっと穴が塞がり、
 ZともMとも聞こえるようなファズのかかった轟音が部屋中に響いた。「心拍数は?」「上昇しています!」「よし追加で行こう」「す
みません。もう在庫がありません!」「他の病院からもって来い」「時間がありません!」「時間がない。俺が代わりに打つ」などと二人
は医療ドラマの大根芝居をはじめた。よっこいしょ、と次は柴間がまたがろうとしたとき、ウッ、と口元を押さえて視線を逸らし、その場
で抱腹絶倒した。なんや! ガンちゃんが言うと、柴間は最後の力を振り絞り、指で佐々木の顔を示した。どしたん? と佐々木の顔を覗
くと、これにガンちゃんは申し訳ない気持ちと笑いを感じ、その感情の振り幅で肩を大きくヒクつかせて、高い声で笑った。なんか付いて
る、自分でそう言うとまた笑いが込み上げてきた。佐々木のデコになんか付いてる(笑)と言ってまたも高く笑った。笑いが笑いを生みだ
すハウリング状態になり、二人は死ぬほど笑って涙が止まらなかった。佐々木の正中線、眉間の2センチ上にはどう見たって、茶色いカス
即ちウンコが飛散していたのである。それが為に、ガンちゃんは申し訳ないと思ったのである。

 笑いが治りきると、二人は流石に冷静になり、バレたらコトだ。空のカップ麺に入っている古い割り箸でカスを除去し、ウェットティッ
シュで速やかにデコをゴシゴシ拭いて、完全にさっきの出来事をなかったことにしたのだった。
 しばらくして佐々木が起床したあと、三人は何事もない様子で布団を敷いたままの床に寝転がっていた。沼津の秘境みたいなところまで
来て全体、俺は何をやっているんだろう、と思ったが、黙って、スマホのゲームをやっていた。その間、二人はスクフェスというリズムゲ
ームに盛り上がっていた。もちろんラブライブのゲームである。楽曲は基本的にアイドル系なのだけれど、聞き耳を立てていると意外に完
成度も高くバリエーションも豊富で、ロック歌謡なもの、低音とビートが気持ちいいクラブミュージック、ドスの効いたメタルなんかもあ
ったりした。その昔、バンドマンだった佐々木は音楽に中途半端に詳しいので、知ったような口で「これ、なんて曲」「ウォーターブルー
ニューワールド」「すげーいい曲。サビに入る前のBメロで複雑な転調してるよね。あとメインボーカルがめちゃくちゃ上手い」なんて言
う。柴間とガンちゃんは嬉しくなり──特に柴間はいい気になり、「お〜さすがだね。元バンドマン」「横から聴いてたけどさ、悔しいけ
ど普通に聴けちゃうんだよね。マジで。ヲタク系だからって好き嫌いしてたわ」「まあ俺もよくあることら」柄にもなく上機嫌なのは、佐
々木が何も知らずにアクアを聴き、ボーカル──推しの高海千歌を、上手いと絶賛したからだった。高校時代から柴間は他人に恐れられ、
機嫌をとる為のお世辞しか言われなかったからこそ、こんなぽろっと出てきた本音に人一倍、喜びを感じずにはいられないのである。「ち
ょっと観てみたいかも」「え? 観る?」「せっかくだし」「お前〜。こんな聖地の本拠地でアニメ観るなんて、贅沢言うじゃねえか」「
しかも今日、めっちゃ晴れてるからね」「サンシャインだね〜」と二人の心は既に、大事な聖誕祭の昼間を『ラブライブ! サンシャイン
』アニメ第1期鑑賞会に費やそうとしていた。二人がこうとなると、ガンちゃんも「まあ俺は別にええよ」と言わざるを得ない。内心、せ
っかく快晴なのだから昼間に各話のスポットを巡礼するべきだ。と思っていた。
一期を見終わって、佐々木は感動していた。
気がつけば涙が出ていた。観る少し前まで、アンチ・ラブライバーだったことを後悔した。これからは悔い改めて、ラブライバーとして
生きていこう。このベランダから見える海岸の、乱反射するかがやきが、まるでアクアの、九人の個性の、かがやきに見える。俺にはそう
見える。君たちはこの美しさのメタファーだったんだね。と掌を返すとはまさにこのことであった。
バイトもせず日がな一日家に引きこもって本を読んだり、ギターの練習をしたり、安ワインの瓶を舐めては夜な夜な酩酊してモラトリア
ムを持て余した男・佐々木にとってヲタクをすることは、ラブライバーになることは、新たな人生のように新鮮で未知だったのである。
「俺、グッズ買うわ」佐々木は起立し、宣言した。「いや、まだ早くないか。ってか誰推しなん?」ガンちゃんは内心、良いカモができる
んじゃないか、と思った。柴間も同じことを考えていた。
佐々木は「いやーやっぱり主人公の高海千歌いいよね。好き」と言いかけたが、ガンちゃんが冷やっとした顔で佐々木にアイコンタクト
を送った。
「あ? もう一度、言ってみろ」柴間の顔面はまるでDNAの八割がナマハゲと一致しているかのような鬼の表情と化した。
すかさず察して「いや高海千海は主人公だからさ? やっぱり一番、魅力のあるキャラクターだとは思うのよね。俺の推しではないよ」
と茶を濁すと、柴間の顔面は元に戻った。
仕方ないので「ウィキペディアで調べたけど、俺と誕生日一緒のやつがいて、ヨハネっていうんだけど」と言いかけたところ、柴間は吹
き出し、あの温厚なガンちゃんは無表情で佐々木を蹴倒した。
佐々木は二回目になって、やっと理解した。
ラブライバーは身内で「推し」が被ると、戦争になる。従って、九つしかない椅子取りゲームになるのだと。覚悟が要るな、と思った
。「で。もう一回チャンスあげるけど、誰推しなん?」なんだっけ。と佐々木はその女の名前を思い出せずにいた。「えーと、あいつあい
つ。なんだっけ。黒澤……ディア?」「ディアちゃうわ。ダイヤ」「そうそれ」と佐々木は別段好きでもないが、安パイで、黒髪ロングで
真面目キャラという、カテゴライズしていくといかにも汎用な女を「推し」としていくことを決断してしまった。柴間とガンちゃんは大き
く拍手した。いいカモができたな、という目でお互いを見た。「じゃあ、とりあえず車出して、オタ館行く?」「ええやん」「わからんか

らとりあえずついて行くわ」新入部員のようにフレッシュな心持の佐々木であった。「とりあえず、洗礼祝いにこれやるよ」柴間は袋の中
から黒澤ダイヤのバッジやストラップを見繕って十個ほど渡した。「俺にとっては外れだからね」
 日暮れ、柴間の車で市街地へと向かった。
車は中古のシルバーのワゴン車で座席の大半にグッズが装飾されていて、窮屈だった。
しかも荷台からは魚介類を腐らせたような厭な臭いが漂い、冷房をつけて車内の空気を循環させただけでたちまち車内は地獄の様相を呈
した。佐々木が「一体、何をどうやったらこんなに臭くなるのかなあ」と愚痴をこぼすと、これに対して柴間は「オキアミこぼした」と半
笑いであった。「それはそうなるわ」と返答したが、そもそもオチも糸瓜もない話なので、三人は平然と別の話題に花を咲かせ、爆音で垂
れ流すアクアの楽曲に合いの手を入れたりした。といっても佐々木はまだ知って一日も経ってない、座席に座る二人の見様見真似でやって
いたから、タイミングを間違えてその度、ニワカだと笑われた。
海岸沿いの道は──特に反対車線は高海千歌の誕生日ということもあってか、かなり渋滞していて、市街地へはほど遠かった。そんな中
、数珠繋ぎの車列から現地在住であろうヨボヨボの老人が途轍もなく遅いスピードでこちら側に横断し、危うく轢き殺しそうになったりす
るなどのハプニングがあったりして、交通安全に改めて注意が必要な状況となり、到着予想より、およそ十五分から二十分くらい遅く市街
地へたどり着いた。
それでやっと、各地で各種グッズを買い集めはじめられた。
特に、佐々木の金銭感覚は狂いはじめていて、あまり好きではなかった筈なのに、黒澤ダイヤにまつわるありとあらゆるグッズを見つけ
れば買い見つければ買いとやっていたので、程なくして赤色に身体は染まった。しまいには赤ければなんでもよくなったのだろうか、コン
ビニで、ただ赤いだけのサンダルを買ったりしはじめたので、柴間もガンちゃんも、こいつバカだ、と思ってならなかった。むしろここま
ですべて二人の計画通りだったのである。
というのも、佐々木の「推し」と設定している黒澤ダイヤというのは、二人の推している高海千歌だとかヨハネなどと比べて、需要が著
しく低く、たとえばネットオークション・フリマアプリで同シリーズの高海千歌と黒澤ダイヤのグッズがあっても前者が一万円以上で取引
されるのに対して、後者は一万円以下で発売しても売れない。
したがってランダムで排出されるバッジやストラップの物々交換をする際には黒澤ダイヤ3=高海千歌2の割合で交換するのが概ね適正
であると言えるのだが、佐々木はつい数時間前にラブライバーになったばかりで、その知識が皆無に等しい為、ランダム排出のグッズで高
海千歌やヨハネが当たったとしても二人は、今まで需要がなくて売却できずに溜まってた産業廃棄物を一個渡すだけで目当てのものが手に
入るのである。
しかも表面上はウィンウィンの関係なので、背徳感を覚えることはないのだ。発展途上国の資源大国のように本来得ることのできる利益
を佐々木は知らぬ間に奪われていたのである。
 結句、バイトもしてない癖に、二日間で総額三万も衝動的に佐々木は消費した。
それで財布の中身が残り僅かとなって少し現実が見えはじめたのだった。働かなければ。働かなければ黒澤ダイヤのグッズは買えないじ
ゃないか。と悟った。真夜中だった。佐々木は夜中、「今からヒッチハイクで沼津駅まで行って始発で帰る。世話になった」と宣言し、家
を出た。もちろん二人は「バカか」と止めたが、「行くったら行く」と言って聞かなかったのが本物のバカだった。三十分後、二人は様子
を見にいったがやはり佐々木は闇の中をぼちぼち歩いていた。それで仕方なく駅まで送ってやったのは二人の優しさだった「お前、次、誕
生日なのは桜内梨子だから、その日また来いよ。金貯めて」「それっていつ」「九月十九日」「そんときまでに金貯めるね」
      四
二人の友人をたかがヤンキーに嘲笑されたくらいで死ね。というのは、やはり人として根本的にダメなんじゃないかと佐々木は自省する

こんなことだからいつまで経ってもバイトもろくにできないのだと悲しい気分になった。たしかに佐々木はかつて三度ほどバイトをクビ
になっていた。

大学入学後、はじめて勤めることとなった家系ラーメン店では、ラーメンが佐々木の好物ということもあり、最初の数週間は、はつらつ
とシャッセ〜。並カタメコイメオオメ一丁〜。と言うや否やすかさずドンブリをじゃあじゃあ洗って、やる気あるね〜、とそこそこ店長か
らの信頼があったのだが、ある日、二郎インスパイア系ラーメンが注文された際に、「ニンニク増しで」を「ニンニク無しで」と聞き間違
え、そのままニンニク無しのラーメンを持っていったところ、客から怒鳴られ、店長にもその後(元ヤンという気質がそうさせたのか)休
憩室で殴る蹴るの暴行を加えられ、それから次第に働くのが恐ろしくなって、意気消沈。流れるように無能の烙印を押されてクビになった

それから佐々木は働くのが恐ろしくなって毎日ふらふらしていた。見兼ねた友人の紹介でなんとか近所でバーテンを始めるもマスターの
体調不良で閉店。その後しばらくして、楽そうなティッシュ配りのバイトを見つけ、ティッシュを人一倍配ったが広告効果が見られず、人
員削減の対象となりクビ。後者ふたつは単に運が悪かったとしか言いようがなかったが、佐々木にとってはラーメン屋のトラウマが影響し
、こうなったのもすべて自分の無能さにあると思っていた。完全に、心が折れて、もうバイトなどしたくないと思っていた。
空が白みはじめた。もう蝉からは声が聞こえなくなっていた。
よく見ると、どこから現れたかわからない何十匹もの小アリが、体内に出入りしているのを見た。もうじき蝉は石になるのではないかと
戦慄しまた親近感を覚えた。空蝉だ……佐々木はつぶやいて、どうすれば楽しく生きられるかを考えたが、思い浮かぶのは、今の生活ばか
りで、まずは今の生活を改善するに手っ取り早いのは金だ。どの道を行けど将来的には必要なのは金だ。将来的には沼津にいつでも新幹線
で行けるほどの余裕が必要なんだと金のない佐々木は結論した。
 しかし間もなく佐々木は焦った。焦りまくって脳がスパークし、その場で、え? え? とおらび声を上げた。どこをどう探しても財布
が見当たらないのである。ついさっきまでちゃんとポケットに財布を入れていたのに、いつの間にかするりと抜け落ちていたみたいで、記
憶を辿り、駅周辺を二、三周探してみたのだが、やはり見つからない。このままだと電車に乗ることができない。だからといって、そろそ
ろ西浦に到着したであろう二人を呼び戻して助けを請うのも、まったくもってみっともないし、申し訳ない。流石の佐々木も憚られる思い
。ここからヒッチハイクをすれば時間は多少かかっても東京に帰れることを考慮すると尚更あの二人を呼びもどすことは人として許される
所業ではないと感じた。
 いずれにせよ最優先すべきは財布である。現金は抜かれていても仕方ないが、せめて身分証やカードだけは返ってこないと今後の生活も
ままならないのだ。しかし二、三周しても見つからないものが数時間以内に見つかることは確実にないのではないか、と佐々木は半分諦め
ていた。
 だから必然的に残された手段はヒッチハイクしかなかったが、佐々木はそれも無理と勘付いた。どう考えてもそういう答えに行き着くの
だ。いくらヒッチハイクで乗せてくれる人が良い人だからって、全身真っ赤になっている奴は怪しすぎる気持ち悪い乗せたくないに違いな
いのである。もしいたとしてもその頃には、間違いなく熱中症なのだ。
 それで佐々木に残された道は一つしかなかった。それは天から垂らされた蜘蛛の糸かのように運命的にそこにあった。あったのである。
向かいのベンチで酔いつぶれて倒れているサラリーマンの懐から財布が抜け落ちていたのだ。拾ってくださいと言わんばかりに、無防備に
目の前にそれはあった。佐々木は躊躇したが、ここで自分が盗まなくても他の誰かがどうせ盗むのだから、今ここで自分が盗んでも問題な
いだろうと読んだ。人目を気にして瞬時に財布を拾いポケットに突っ込んだ。そして駅から百メートル程離れたところで財布を開らき、ポ
ケットに札束と小銭をすべて隠した。財布は人に見つかりやすい自販機の下に置いて、現金を数えると、小銭と札束を合わせてざっと六千
円だった。これだけかと佐々木はげんなりしたが、何よりこれで帰れると安心した。
 もう日は昇っていたのにサラリーマンはいまだに倒れていた。これはやっぱり自業自得だと思うことにして、切符を買って改札を抜けて
、始発に乗った。予定通りに熱海駅で一度降り、キリンビールと押し寿司弁当を買って次の電車で食べた。佐々木は安心した。あとにもさ
きにも盗みだけはもうしたくないと心底思った。空蝉……と一言だけつぶやいた。

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